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☆京都のお天気:晴冷気大加 (『嵯峨実愛日記』) >第一次幕長戦へ ■将軍上坂運動 【京】元治1年9月4日、土佐藩は、先日中川宮より依頼されていた将軍上坂周旋につき、困難だという理由で断りました。 この日、土佐藩士乾市朗平が中川宮に面会し、将軍上洛周旋は「余程六ツヶ敷存候ニ付」断る旨を伝えましたが、中川宮は、日記に「尤之義」と記しています。もっとも、この件は、もともと会津藩の依頼だったので(こちら)、公用人手代木直右衛門を呼び出して説明したところ、承知したそうです。 <ヒロ> 手代木に依頼された件だとはいえ、将軍上坂は朝命だし(こちら)、そもそも中川宮が主張していたことなのでは・・・(こちら)。その周旋が困難だと断られて「尤も」というのは、なんだかあっさりしてますよね。ムリな朝命を出してる自覚があるってことでしょうか。それとも幕府が雄藩の政治介入を嫌うことが予測できるってことでしょうか?(どちらにせよ、朝廷第一で突っ走って、江戸の幕閣から忌避されまくってる会津藩の立場が・・・) 参考:『朝彦親王日記』i一p66(2018/5/13) >江戸の内情(by 在府会津藩) 【江】元治1年9月4日、会津藩江戸家老上田一学は、在京家老神保内蔵助等に書を認め、老中阿部正外再上京の内情・開国やむなしとの在府会津藩意見、下関戦争後の長州藩と外国の親睦・外国が長州につく恐れ、幕閣の会津藩外し(老中が因循であってくれない)、老中2,3名の幕政専横などを知らせました。 〇江戸家老上田一学書簡の主要部分(句読点、()内はは管理人)
※1:阿部は、7月末に将軍の使者として一度上京したが、一橋慶喜に説得され、将軍急速上洛を促すために、8月初めに海路帰府(こちら)。しかし、24日に再度上京を命じられ、30日に品川出港(こちら)。この上京を指す。 ※2:阿部に将軍急速上洛を周旋を補佐するよう言われて東下(こちら)。8月11日着府。 ※3:会津藩京都公用人。将軍上洛を周旋するため、阿部正外に随行して8月初に東下。しかし、1か月近く幕閣に会ってもらえず、滞府中。(こちら) また、東下中の京都公用人野村左兵衛・広沢富次郎・柴秀治は、同日付の「内密帖」にて、開国やむなしの事情・・諸侯会議による開鎖の確定の必要性を進言しました。 〇「内密帖」(東下中の公用人野村左兵衛らの意見書)のてきとう要約
<ヒロ> 〇在府会津首脳の書状について ・江戸の会津藩首脳は、幕府首脳に疎外されつつも、幕府の方針に寄り添ってます。外交問題ではやはり現実的で、横浜鎖港問題について開国をよしとすべし、と進言するとか。もっとも、この点は野村左兵衛と話し合った結果だと思いますが。 ・幕政を専横していたらしい老中とは誰でしょう?勝海舟の日記(9月10日条)や後年の一橋慶喜の回想では、諏訪忠誠【すわ・ただまさ】がやり玉に挙げられています。(この頃の他の老中は、老中首座水野忠精、牧野忠恭、阿部正外、本庄宗秀(安政大獄時の寺社奉行で、所司代就任を会津藩に阻まれた)です。宗秀もアヤシイ・・・。 〇東下中の公用方の書状について ・野村左兵衛が実質的に開国論に!そして、諸侯を集めて閉鎖の国是を決定というのは、会津藩の方針案としては新しい・・・。(前越前藩主松平春嶽なんかはずっと主張してます。でも、まず征長をすませてからというのが春嶽とは違うところで、やっぱり会津藩っぽいです)。 ・野村は、文久2年に会津藩が守護職を引き受ける前に、京都の情勢を探った結果、藩論を三港外閉鎖に導いた人物の一人なんですよね。なのでいわゆる「開港説」ではないといってるわけです。でも、当時も、公武一和のためには天皇の鎖港攘夷の意思を尊重することが肝要だと判断したものの、開港の利点は認識しており、また完全な破約(鎖国)攘夷は実行が難しいので、とりあえず開港ずみの三港(長崎・箱館・下田)以外の通商は拒否し、時機をまって天皇をゆっくり説得するしかないと考えたとされています(こちら)。 なお、これらの書状が京都に達したのは9月10日だったようです。(三日限ほどではないですが、通常より早いです) 参考:「会津藩庁記録」(『稿本』)(綱要DB 8月24日 136、138)、『会津藩庁記録』五p603-605(2018/5/13) 関連:◆8/28【江】在府会津藩士柴太一郎「秀治」幕府の内情(慶喜への疑念、会津藩を疎外)及将軍徳川家茂上洛遅延の事情を、在京同藩士に報ず テーマ別元治1年■第一次幕長戦(元治1) ■一橋慶喜の評判/嫌疑 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ 【江】幕府、将軍進発随従者に、公借金の返納を猶予(綱要)No76
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